『 レッスンとWSの感想と動画 』のページにはこちらから戻れます。
伊豆川奈春合宿参加者の皆さんの感想を順に並べてみたとき、私はそこに合宿の場の素敵な雰囲気が息づいているように思いました。ネット上の掲載に当たっては名前を伏せなければならないとは思うのですが、その場に生きた一人一人の名前を疎かにはしたくない。そのために少々不思議な本名の書き換えをしました。一人一人がそれぞれに自分らしく過ごした風景が浮かんでくることで、一つの大きな物語りような、この一通の文章・文脈が生まれたのだと思うからです。レッスンは説明して分かるものではなくて、体験によってしか知ることが出来ない。だから感想文を手がかりに体験を皆さんにも共有して頂きたいと思っています。長文になりますが読み通して頂ければ幸いです。よろしくお願いします。(瀬戸嶋 ばん)
【ばん⇒あい】
K岡 あい 様
昨日までいろいろとありがとう。
無事に小倉に帰り着けましたか?
お陰様で、楽しいレッスンになったなと、思っています。
あいさんはいかがでしたでしょうか。
同世代の人たちが集まりましたが、それぞれの道をこれから進んで行くのでしょうね。
あいさんには、もう一度大地に深く根差して、活動を続けて行って欲しいと思いました。
知によって、世界を突き抜けて行く方向ではなく、大地と自己の関係を深めながら、
そこに生まれてくる汗で、独自の知恵を育てながら自分や他者を豊かにして行ってくださいね。
またお目りかかりたいと思います。
元気でお過ごしください。
そうそう、吃音の件ですが、レッスンの中で、他の人たちにはほとんど気づけないだろう程度に小さな引っ掛かりが聞こえました。「吃音」という言葉で括れない、自分にとっての生きる意味を、「吃音」を持つ人たちは一人一人が問われるのでしょう。ある意味非常に孤独な作業になりますね。だからこそ自分の生きるところ、喜びをもって生きれる何かを自分で自分の中で、大切に育てて行かなければならなくなる。人を頼ることが難しくなる。ある意味それが許されない。私は吃音者ではありませんが、強烈な孤独の中で、必死に生きなければならない厳しさ辛さは良く分かります。そこにしか道を選ぶことが出来ない。なまじの世間からの慰めは役に立たない。私自身は「からだ」と「ことば」に関わることで、生きることの豊かさを発見することが出来ました。他者へのそれでは無く、自分自身の「からだ」への信頼、それが私を孤独から救ってくれたように思っています。
とにもかくにも、再会を楽しみにしています。
長くなりましたが、最後にお願いです。
月刊のメルマガ、「からこといのち通信」に今回の合宿の報告を載せたいと思っています。合宿を知ってもらうために、参加して頂いた人たちの感想が、何より大事な記事になると思っています。感想と言わず、参加者や私への問いかけや、思いを述べて頂くのでも結構です。もし宜しければ、感想文を無理のないところで結構ですので、お願いしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
瀬戸嶋 充 ばん
【あい⇒ばん】
瀬戸嶋さん
お疲れのところメッセージいただきありがとうございます。
昨日は名古屋までShow太さんと楽しくおしゃべりしながら
あっという間に小倉に帰り着きました。
瀬戸島さんには、3日間大変お世話になりました。
おかげさまで、どこまでもあたたかいメンバーと、夢のように濃い時間を過ごすことができて幸せです。
終わって淋しいという思いがある一方で、自分と向き合う厳しさから解放され少しほっとしている自分もいます(笑)
まず合宿を振り返って一番感じていることは、すべてを受け入れてくれるあたたかい人と場所はすでに周りにあるのに
自分のからだと心はまだまだこわばっているということでした。他人への警戒心、信頼できなさが消えきれないです。
いつも相手との関係性が近くなると、怖くなってバリアを張ってしまいます。
外側から自分を見ることができるなら、森の中で敵をいつも警戒している野生動物みたいなイメージです。
そんなところに無駄なエネルギーを使わなくてもいいのに、、と思ってしまいますが、なんなんでしょうね、滑稽です。
でも、そのことに気づかせてもらえたこと自体が大きな収穫で、これからが始まりだなあと思いました。
そんなわけで、合宿の常連になると思いますが(笑)、今後ともどうぞよろしくお願いします。
それから吃音ですが、今回の声のワークで、昔の吃音原体験の記憶が一気によみがえってきました。
声が上に上がっていく感覚は吃音が出だした小学生くらいからずっとあったのですが、
瀬戸嶋さんに言ってもらえたことで、あーそういうことだったのかーと腑に落ちました。
足で床をドンドンしたり、ジャンプしないと喋れなかった子ども時代を思い出し、あれは
無意識に下に下げようとしていたんだなと納得しました。
瀬戸嶋さんがおっしゃるように、これといった治療方法がなく自分以外の誰も解決できない問題だっただけに
自分の中の得体の知れない化け物みたいなものと、必死に孤独に対決していたような気がします。
そして大人になった今でこそ、人と話す、人前で話すという場数を踏んで、吃らない術をある程度身につけはしましたが、
それは社会生活をなんとか切り抜けていくために必要な仮面なのだと、今でもそんな感覚があります。
だからこそ、今後もレッスンを続けて、本来の自分を取り戻していくにつれて、また吃音がひどくなっていく怖さも実はあります。
でも、瀬戸嶋さんが励ましてくださったように、吃音があるからこそ自分に正直に生き、
楽しい人生を切り開いていくことができるのだと、今は信じていきたいなと思います。
それからもう一つ、今まで吃音をもっていない人に打ち明けたのは今回の合宿が初めてで、自分でも驚いています。
そのきっかけを作ってくださった瀬戸嶋さんに、心から感謝しています。
帰りの新幹線の中でもShow太さんが色々お話しを聞いてくださって、本当にありがたかったです。
なんだかまとまりませんが、とにかく今回の合宿に参加したことで、色々な面で新しいスタートを切れたということをお伝えしたかったです。
その他にも色々と気づきや浮かんできた疑問などあるので、またゆっくりしたときに改めて書いて、お伝えしますね。
また次回、お会いできるのを楽しみにしています。
どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。
K岡 あい
【ばん⇒きみこ】
N山 きみこ 様
昨日までの2日間、ありがとうございました。
無事に笹山までたどり着けましたか?
今回は二度目の合宿でしたっけ?
レッスンの中で、玉ねぎの皮(身)を、一枚一枚剥いて行っているような印象を持ちました。剥がすたびにツヤツヤ光る、きみちゃんが顔をだす。楽しいです(笑)
考えることが習い性になってしまっているのでしょうね。周りの光景を目を通して脳みそに直接取込み、情報を整理し、処理し、自分の中の闇を見つめ答えを見つける。外の世界と心(=からだ)の内部の間を遮るフィルターが無いので、外側の全部の光景が印画紙のような平面的な光景として、自分の中に焼き付いてしまうのではありませんか。
こんなことを考えてしまったのです。そしてそこから考えたのですが、きみちゃんは、サングラスをかけてみては如何でしょう。世界が直接に眼を射ることが無くなって、今よりはずっと楽に状況に接することが出来るのではないかと思いました。思い付きの当て推量見たいなものなので、実際の効果・変化や意味についてはなんとも責任を持てませんが、試して見てどんな感じがしたか教えて欲しいと思いました。戦闘機に乗った「紅の豚」のポルコみたいにカッコよくなるかも(笑)
それからお願いですが、月刊のメルマガ、「からこといのち通信」に今回の合宿の報告を載せたいと思っています。合宿を知ってもらうために、参加して頂いた人たちの感想が、何より大事な記事になると思っています。感想と言わず、参加者や私への問いかけや、思いを述べて頂くのでも結構です。もし宜しければ、感想文を無理のないところで結構ですので、お願いしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
また、お目にかかれるのを楽しみにしています。
諸々よろしくお願いします。
瀬戸嶋 充 ばん
【きみこ⇒春合宿Messengerグループ】
遅くなりましたが、感想を送らせていただきます。
のどかで解放的な静岡の風に吹かれながら、3月の合宿は始まった。時間と共に移ろう景色と音、そして息づかい。
相手の体に触れるというのは、自分が触れられるのと同じくらい心地よいものになることを知った。初めて会う人たちなのに、なぜか抱き合っても心地がいい。触れられる喜びと触れる喜び、そして触れ合う喜び。この感覚忘れたくない。
最初の自己紹介で、ばんさんが怒りを解放するには息を深くすることだと即座に簡潔に答えてくれた。私もそのようにありたいと思う。そうなるのに、いったいいつまでかかるのやら。
私の地声は思っていたよりずっと低かった。レッスン中、こんな声で話したり歌ったりすれば、恐怖心を与えてしまうのではないかなとだいぶ戸惑ったけれど、なぜかみんな優しく受け止めてくれた。そして、私は、人に恐怖心を与えないようにかなりの気を配っていることに気づいた。そういうんじゃなくて、自分が単純に安心していればいいんだと思う。そうしたら人に安心感を与えられるようになるかもしれない。海のように。それにはやっぱり呼吸を深くしていくことかな。
ばんさんはレッスン中、参加者になんども話す機会をくれる。なぜだろう。「言葉にあらわすこと」ってどんな意味があるんだろう。正直、いちいちレッスン中の体験を言葉に翻訳することに煩わしさを覚えたりする。もっと言葉の外の世界に居たいと願ってしまう。でも、そんな体験の世界の豊かさや、言葉のめんどくささや狭さに気付けるのも言葉に翻訳する行程を踏んでるからこそなんだろうな〜。いや、わからない。「からだとことばといのちのレッスン」名前がなかなか奥深そうだ。
私は見たものを脳に焼き付け、情報を整理し、自分の闇を見つめ、答えをだす傾向があるらしい。たしかに、一つの物事に対して考えすぎることはあるかもしれない。そんなことばかりしていれば、闇を深めていくだけかもしれない。だけど、私はそれ以外に方法を知らない。なんだかもっと恐ろしい自分になりそうだけど、それはそれでありかとも今では思う。
最後になりましたが、時間を共にしてくれてありがとうございました。またいつかお会いできたらいいですね。
【あさと⇒春合宿Messengerグループ】
こんにちは😌2日間楽しい時間をありがとうございました。
あのあときみちゃんともまた出会って振り返りが少しできました。
今回の2日間の中で、待つこと、余白をつくることの大切さを知りました。
肚で受け止めるから待てる
そういう安心感をいただきました。信頼ってなんなのか。守るってどういうことなのか。愛するってどういうことなのか。そういったことが身体を通じて身に沁みてわかってくる。そういう機会をいただいたんです。
呼吸を入れる時も入れて少し待つ
ことばに出会う時も少し間をおいてことばや情景に出会っていく
空っぽになってみること
必要なときにいのちはこたえてくれることを
信頼すること
願いは一人で持つのではなくみんなで持つこと
与えられた有限生の中で工夫していくこと、繋がっていくこと
無限性からの扉はさまざまな契機で開かれるから
その余白をその準備をして
待っていること
必要と思ってくれるところでやれることからひとつずつ貢献すること
そういったことを思いました。
ありがとうございました。
またよろしくお願いいたします!皆様のこと応援してますね。
【ばん⇒あさと】
N村 あさと さま
こんにちは
私も昨日から、参加してくれた一人一人に、私の感想をメールし始めました。定員5名と言うことで、一括して挨拶するより、一人一人に言葉を届けたいと思いました。
ところが、私の並外れた遅筆のせいで、あさとさんの感想(Messenger投稿)に先を越されてしまいました(笑)昨日は3時間もかけて、あいさんときみちゃんまで書いてタイムアウト。決して長文ではありません(笑)
Messenger(2021春合宿)への素敵な感想をありがとうございます。これだけシンプルで無駄のない文章を書いて頂けるとは。驚きと嬉しさにほっこりしました。
ひとつひとつの出来事を、詩人のように優しく的確に包む言葉とでも言いましょうか。ことばとこころが一つになって、あさとさんを支えているようですね。
おそらく知恵という光をお持ちなのでしょう。まがい物の知恵に塗り込められた時代の中では苦労が多いと思いますが、ご自身の明るさを信じて道を歩んでください。
私には先見の明がありません。今ここにじっくりと腰を据えて、身動きがつかない私です。だからこそ見えてくる「いのち」の「ありさま」があるのですが、世間との関りは酷く不得手です。
あさとさんのように、活発に動ける人を羨ましく思います。時々にご一緒させて頂き、あさとさんの心意気に触れさせて頂ければ有り難く思います。
「からこといのち通信」で合宿の報告として、みなさんの感想を取り上げたいと思っています。ご迷惑でなければMessengerへのあさとさんの感想も、転載させてください。
ではではまたお目にかかるのを楽しみにしています。
元気でお過ごしくださいますよう。
瀬戸嶋 充 ばん
【あさと⇒ばん】
瀬戸嶋充 様 ばんさん
メールでのご連絡いただきありがとうございます。
ばんさんのワークを受けてみてよかったことは
まず、立場を超えてつながれたことです。
一人では気づけないことに気づいてくださって、そしてあの場にいた方々一人一人によって本当に様々な面で支えられた2日間でした。
人と人の間で多くの言葉を交わした訳でもないのに、たしかにあの2日間で感じた安堵感とあたたかさと、そして愛情を今でも味わっています。本当に感謝です。ありがとうございます。
あのあと、何人かに習った野口体操をやってみて、友人のこと、友人の手や身体の反応から少しその人のことがわかった気がしてとても嬉しかったです。
私自身、いろいろな試練を経験して、特に自分自身が病で倒れてからは、あらゆるストレスに身体が感応してすぐに疲れたり痛くなってしまうことが続いているのですが、それも全て身体が伝えてくれているのでしょう。
身体の感応に誠実に対応していく中で、あるいは様々な方と繋がり今度は私が誰かを支える中で、強い反応がやわらいでいくことを願っています。
メッセンジャーでお伝えさせていただいた合宿案ですが、ぜひ引き続きよろしくお願い申し上げます。
ばんさんにあんた大丈夫よ。と気さくに話しかけてもらいながら対談さるだけで、場も人も和んでゆるむと思います。
ばんさんのワークだけでなく、ことばに出会えることも本当に楽しみにしています。
また、膝をゆるめて使ってみたり、考えないで話してみたり、反応することをあえてやめてみたり
ばんさんに気づかされたことを日常で生かしてみようと思います。
最後に
最初の方に書きましたが、やはり今回の会では立場を超えて繋がれたことが本当に良かったです。
ばんさんが一人一人の視点に寄り添い、偏見なく場を作ってくださったことによって生まれた場だと思います。
どうかこの場を通じて沢山の方々と悦びあうことができますようお祈りします。
N村あさと
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【ばん⇒Show太】
Show太さん
ありがとう。
今回、ようやくShow太さんの「話しかけ(のレッスン)」に出会えて(成立して)ホッとしました。
Show太さんとは、今までに何度となく、声出しや朗読をしてきたと思うけど、これでOKと言い切ることが出来ずにいて、いつかいつかという思いが、私の中で眠っていました。せっかくこんなにも一生懸命にレッスンの場に来てくれているのに、たしかな結果を出せないままにしている、何もしてあげられないことへの申し訳なさも感じていました。
久しぶりにShow太さんが参加してくれることは、素直に嬉しかったのですが(そうだよね長い期間、レッスンを共にした仲間だものね)、何が出来るのか成り立つのか?Show太さん自身も何で参加を選んでくれたのか?
「いのち」の側から言えば、ほんとの意味(私が求めるところのありますが)での「集中」=「話しかけ」の成立を求めて、この場に身を運んでくれたのでしょう。魂の導きとでもいうところでしょうか。機が熟したとも。それは自分の意志や意味付けを超えて働くのでしょう。それでなければ、あれだけの鮮やかな集中は成り立たなかったことでしょう。
Show太さんが壁を向いて坐るうしろ姿から、真っすぐに相手に向かって、いのちの光が「こえ・ことば」となって宙を奔(はし)って相手のからだの中に消えて行く。その素敵な瞬間に、立ち会わせて貰いました。
お陰様で、私の中で何かがさっぱりしました。当時、誤魔化しをなしにShow太さんに向かい続けたことは、間違ったことではなかったのだと、思えたのです。結局私にはそれしか出来ない。でもそれで良いのだ!と。
ここまでが、今回の合宿での私の思いとその場で起きたことです。
あとは私の感じたこと、或いはちょっとした解釈になるかもですが、こっちは半分眉に唾をこすりながら、読んで貰った方が良いかも。断定や審判は抜きにして下さい。
一つには、あの時、Show太さんのいのちに触れて、そのいのちの側から見たときのShow太さんの普段の姿が、ミシュランタイヤのキャラクター https://images.app.goo.gl/t4mLC6J7YwZceoZo7 に見え始めたのです。
そしてここからは、私の放言と思って欲しいのですが、CMのキャラクターというのは、非常に特徴的に楽しく創られているのですが、表情の細かな陰影は表すことが出来ない。表情のどこまでも細やかな表現というのは、人間=魂の特権ですね。人間の意志を超えたところに生まれてくるのが本来の創造ですね。そしてその細やかな確かな表現を、いのち(魂)は自然と求めてしまう。大雑把な許容(知識による決めつけ)を許さない。
それが「智慧」のもつ性格でしょう。キャラを被ることは、いのちの一つの本能(知恵)を閉じ込め封じることだと思います。そして「着ぐるみ」の中で、いのち(魂・智慧)は自己を表現する道を求めて、のたうっている。あのレッスンの中で、たまたま着ぐるみの背中のチャックにほころびが出来ていた。そこを狙って、いのち(魂)は開放を求め、他者のいのちとの和合、あるいは他者への自己開示に向けて、飛び出した。
そんなことを、レッスンを終えてから考えました。
あとはこれはお節介ですが、Show太さんには、人のために生きることを選択するよりも、どこまでも自分らしく、心底喜びを持って生きる道を選び、歩いてほしいと思っています。K大卒という印籠もですが、その他Show太さんらしい能力や優しさも持っている。E田さんの物言いではないけれど、社会に対峙する武器と能力をShow太さんは、既に手にしているはずです。それを私より上の世代(老害)のためにすり減らし、組織への従属という社会の古い常識に奉仕するようなことでは、もったいない気がするのです。それよりも翔太さん自身が、心の底の底からの喜びを見出せるように進んで行って欲しいと思うのです。
私は社会組織からこぼれて落ちて生き延びてきたのですが、Show太さんにはそんな零れて落ちたような奴でも生きて行ける世界へと、世界を塗り替えて行って欲しいと、私は誠に勝手ながら(笑)思っています。そのためには自分の中、深奥にある灯を輝かせ続けて欲しいのです。たかが30歳の若さで、自分の一生を決めつけるのはつまらんです。着ぐるみを脱ぎ捨てて、魂剥き出しで、本当の喜びに向かって走り出してほしい。今がそのチャンスかもしれませんね。
あと20年くらいはヒッチャキで走ればいいし、50歳になるころには、否が応でも何とか生きる道筋も見えて、生活も成り立ってくることでしょう。
私の貧乏は、背負わされるべきして背負わされたもので、レッスンの成り立ちには、必要な物だったと今ではおもっています。こんな貧乏は、普通の人には味わえません。自分に誠実に生きていれば、どん底に落ちる前に誰かが泥沼から引きあげてくれるはずです。
こりゃ~?!まるで親父の説教ですね(笑)
まあともかく人生の変わり目、変化のとき、大変なとき思いますが、楽しく苦しく乗りこえてください。
お互い元気でまたお目にかかれれば、なにより嬉しいです。
ばん(瀬戸嶋 充)
--------
このラブレター、書くのに三日間もかかってしまった。「からこといのち通信」に載せたいな~♪、などと超勝手に思っています。
今回の合宿は定員5名にしたので、挨拶のメールも一括ではなく、一人一人に送ることにしました。残すは飯田さん!
宜しければ、翔太さんも感想をくださいね。こちらも通信に乗せたいと思っています。
もう一点、FBのプロフィール写真、あの三日月みたいのが、翔太さんの特徴をよく表しているのかも?
-------- おしまい~☆
【Show太⇒ばん】
ばんさん
おまたせしました。嬉しいお便りありがとうございました。
まず、これまで、ばんさんがレッスンで僕をどんな風に見ていたか、どんな思いでいたかなど、これまで考えたことがなかったので、親心のようなものを抱いていただいていたとは嬉しいです。(「嬉しい」と言い切ってしまうのにはいささかの恥ずかしさも感じます。笑。)また、今回の合宿のあの「話しかけ」が、ばんさんにとって特別な意味を持っていたとは、思いもよりませんでした。
でも確かに、いつもと違う雰囲気があったのは確かです。
これまでの僕は、それこそ藁にでもしがみつくように、あるいは切り立った崖から飛び込むかのように、合宿やレッスンで自分を変えようとしてきました。毎度毎度、どうやったら自分が変わるか、出来ないことができるようになるか、人との距離を縮めるにはどうしたらいいかなど、深刻なまでに考えて、現状を突破する望みをかけて挑んでいました。けれども今回は、明確な「参加したい」という気持ちがあった一方で、以前のような深刻さはなくて、「まあ参加したら大体いい方向へいくだろう」という(良い意味で)軽い気持ちで参加していました。自分でもなぜだかわからないのですが、最初から肩の力が抜けていたのです。
それは、合宿に期待しなくなったとか、必要なものはもう習得したとかいうわけではありません。僕にとってレッスンや合宿は、毎回、特別な意味を持っていたし、今回もそれを再確認しました。ただ、その「特別さ」を求める心の深刻さというか、ばんさんのレッスンへの「依存度」のようなものは、確かに減っているようです。それはきっと、前回の参加から2年半の月日を経るあいだに、ゆるやかに自分が変わってきたからなのでしょう。
合宿中にもお話しましたが、あの「壁の方を向いて、背中であいてに話しかける」レッスンで鷹のセリフを読み終わったとき、自分の中に何も残っていないような、そんな感覚に包まれました。数多くレッスンに参加してきた中で、初めての経験です。これまでは、ぎりぎりと力を振り絞った残像のような感覚が残ることが多かったのですが、不思議と何も残らず、疲れも力みも、しんどさも息苦しさもなく、ただたださっぱりしていました。拍子抜けするような感覚でした。
今思えば、あのさっぱりした何も残らない感覚は、「話しかけ」が成立した証だったのかもしれません。
また、もし今回も肩に力を入れて参加していたら、このさっぱり感には至らなかったような気もします。いつものように意気込んで必死な思いで参加していたら、鎧を脱ぐことはできなかったかもしれません。日々迷いながらゆっくりと前に進もうとしてきたことが、心のくびきを少しずつ解いてくれていて、それが背中のチャックのほころびとなり、ばんさんのいう「いのち」が顔を出す契機につながった・・・そんな風に思っています。
あの「話しかけのレッスン」については、そんな風に振り返って考えています。
ばんさんの合宿やレッスンで得られるもの、というか「取り戻されるもの」は、確かにあって、それを言葉で表すのは難しいのですが、「自分が取り戻される」「自分を思い出す」という表現が(ややおおざっぱではありますが)一番しっくりきます。それはきっと、いくつになっても、何度参加しても、変わらないだろうと思っています。過去を振り返ればそこに思い出があるように、ばんさんのレッスンに参加すればそこに自分がいます。自分と出会います。「自分を取り戻したい」「自分とゆっくり時間を過ごしたい」、そういう思いや願いをかなえてくれる場所です。それだけでも、多くの人にとっては救われるような時間だと思います。だから僕はきっと、また懲りずにばんさんの合宿やレッスンに参加すると思います。
(それは裏返せば、日々の仕事や生活で、どれだけ自分を切り詰めて、色んなものを被って、まとって、自分を隠しながら、ごまかしながら生きているか、ということでもありますね。その息苦しさに耐えられなくなった人が、集まる場所なのかもしれません)
今回の合宿を終えて、参加者の方とのふれあいも通じて、分かったことが一つあります。それは、「自分が、自分でも計り知れないくらいに、深く暗く傷ついていた」ということです。外見のことや、友達と遊べなかったことなど、今では落ち着いて話せるようなことでも、私の心には深く重い闇となって癒されないまま残っていて、いつでも助けを求めていると、はっきりわかりました。僕は、合宿で苦しんでいる人・悲しみを抱えている人をみると、どうしようもなくその人に寄り添って癒してあげたくなってしまうのですが、実はその時僕は、自分がしてほしかったことを相手にしていて、またその営みを通じて同時に自分自身も癒されているということに気づきました。そういう背景を持って人にやさしくしていることは、別に悪いとか不純だとかいうものではないとは思いますが、どこか複雑な心境でもあります。
人に寄り添うことは、僕にとって喜びの一つですが、それはそれとして、でも、まずは、「もっと直接、自分自身を癒してあげなさい」と言われているような気がしています。というか、それをしなければなりません。自分のために。自分で自分にしてあげられることがある。自分が求めていることを自分にしてあげるという、そういうことを考えるタイミングが来たと思っています。
僕が人に寄り添いたいと思うことが「やさしさ」だとすれば、この「やさしさ」は、“私の貧乏”、つまり私が30年ほどの人生の中で背負ってしまった、心の苦しさや悲しみや孤独を癒されてこなかったという“貧乏”から生まれたもののような気がします。僭越ながら、僕には僕の、普通の人には味わえない“貧乏”があります。
あるいは、世界のどこかには、僕のこの“貧乏”からだけ生まれうるような営み(ばんさんでいうレッスンのようなもの)を求めている人がいるかもしれません。そういうことを考えるとき、自分が孤独ではない気がして、少し心が落ち着きます。“貧乏”が報われるには、ただ傷を癒すだけでは足りません。その“貧乏”から生まれた営みが、その人が生きる道となった時に、初めて報われうるのではないかと、ふと思いついています。その営みは、他人のためなのか、自分のためなのか、よくわかりませんが、そういう分別の越えたところに、「その人がこう生きたんだ」という、ひとつのいのちの確かな姿があるような気がします。
私にとって、「自分の中、深奥にある灯を輝かせ続けること」が、何なのか、どういうことなのか、まだはっきりとは掴めていません。けれど、「自分が背負ったもの」「過去の人生」「私の“貧乏”」を、自分の未来を暗く染めるものとしてではなく、豊かな人生の土壌になるものとして、自分だけの人生を作り上げるための「必要なもの」として、やさしく抱え込みながら生きていくこともできるのだということは、少しわかったような気がします。そしてそれが、誰かにとっても「必要なもの」であるかもしれない、いやあるはずだという希望も、前よりは温かく感じ取ることができます。
今の僕は、そういうところに立っているようです。
まだまだ書きたいことはありますが、今日はこの辺りで。話がはずみますね。いつもとは全然異なる言葉があふれてくるのが自分でも不思議です。いのちが動き始めているのでしょうか。
※この文章は、「通信」やFBなどに自由にお使いいただいて構いません。僕も内容の一部を、自分のFBなどにUPすると思います。
K林Show太
【ばん⇒E田】
E田 N人 さま
引き続きの合宿への参加、ありがとうございました。
オッサン2人旅。。。以前から私は一人が気楽で、旅先を誰かと二人で出歩くなんて、考えていませんでした。
私は案外相手に気を遣うほうで、相手がいると草臥れちゃうんですね。
それがE田さん相手だと、ほとんど気にならない。
不思議なものです。はぐれたオッサン同士の気安さかな(笑)
私にとってのE田さんは、気の置けない(気を遣わないで済む)友人という感じです。私は友だちがいない人なので、今頃友達が出来たみたいな気分で楽しいです(笑)
合宿ですが、今回は定員を5名にしたので、密度の濃い2日間になって、良かったと思います。そこでアフターの挨拶を、一括にせずに一人一人に送っています。あいさん・きみちゃん・あさとさん・Show太さんへのメールを済ませ、最後にE田さん宛てに書いています。
彼・彼女らを見ていて私は、優しい人たちだなあと思いました。E田さんはどんなふうに彼らのことを思ってたのかな?
おそらく彼らの世代は、教育の強権化がグングン進み、国や教師や世間の常識に拠って作られた枠の中に、とりこまれてしまった世代。その枠の中でしか自分の価値を観ることが出来ずに育った世代にも思えるのです。でもレッスンをして行くと、生なましい一人一人のいのちが弾み煌めき始める。ある意味潔いというか、素直というか?ギラギラした欲が無いのですね。世界がみんなあからさまに見渡せるようになってしまった時代に育った世代。一寸先は闇何ていう怖さや期待に心を震わすことが出来なくなってしまった世代なのかも知れません。
私たちの世代というか時代というか、みんな目指すところに向かって目を、暗くギラギラさせていたのではないかな?(私たち=昭和30年代生れ)
みんなに感想をお願いしました。若い人たちのことをもっと知れると良いなと思います。私たちの世代=オッサン達の理解を超えたところで彼らは生きているのかも知れません。私自身が私自身の立場をあらためて見直すために、彼らとの交流は、とっても大切なこととなるかも知れません。彼らに付き従い寄り添いながら、彼らの眼差しをかりて、現実の世界へと私自身の眼を開いて行く。老いる変化の力(弱さ)を借りて、そんなことが出来るようになって来たのかも知れません。
私の娘も彼らと同世代ですが、私を親として扱うことを離れて、最近では世話を焼いてあげるべき対象として、私に接してくれているように思います。老いては子に従えと言いますが、それがなかなか難しいですね。老いては若者に従えと言い換えても良いでしょう。そこのところに私自身のこれからの成長を見いだしていく楽しみが、見つかるような気もしています。
「いのち」「魂」と近しいところを歩んでいるのは、どうしたって若者ですからね。その意味ではE田さんも私も、若者なのかも知れませんね(笑)
私の思いを長々と連ねてしまいましたが、E田さんの感想も聞かせて頂きたいです。ご迷惑でなければ感想文をお願いします。出来る限り「からこといのち通信」の中で、合宿に参加してくれた人たちの感想を載せて行きたいと思っています。私の説明文より、皆さんの感想の方が、興味をもって読んでくれる人の心に響くのではないかと、思っています。
足は大丈夫ですか?ケガは心配ですが、ああやって心の弾みをからだに満たして表現することは、いくつになっても大切にして行きたいものです。私ももっともっと、工夫を重ねなくちゃ。基本「からだ」はいくつになっても、日々あらたですから。
とにもかくにも、今回も楽しい楽しい時間を生み出すことへのお力添え、ありがとうございました。
瀬戸嶋 充 ばん
(この文も通信の記事に使わせて頂くかも知れません。ご迷惑でなければよろしくお願いします)
【E田⇒春合宿Messengerグループ】
・いろいろとお手を煩わせまにもかかわらず、仲間にいれてくださり、ありがとうございました。皆さまの感性や思いや希いに触れ、とても新鮮な気持ちになることができました。
生きる上でのいろいろな分野で、自分が何をいちばん大切にしたいのかを探します。股関節がゆるみ足裏から昇りくる声にならぬ声を聞きながら。
・膝を痛めてしまった。脚に意識が向くのはいいことだけど、若者に交り調子こいた親父の末路にトホホ。
ありがとう、ありがとう。もうみんなと一緒にレッスンをできないかもしれないけれど、皆さんの健全なる挑戦をいつまでも応援してますよん❗️
・心配かけるために書いたのではないのです。祝祭は怪我人が出てこそ成立するということを伝えたかったのです。怪我を恐れて一歩を踏み出すことに躊躇しちゃダメだと言いたかったのです。舌足らずで、ごめんなさい。
・ありがとうございます。
入浴時しか脚に感謝しなかったから、「必然」の結果です。償いと和解の時間をしばらく過ごします。
運動会で骨折すればヒーローであったのに、年齢による時間差がうらめしいばかりで~す。
・誰にでもお知らせはくる。それをそのときにしっかりと受けとめませう。
・おそらく人が変わるきっかけとは、これまで学んだことや、やってきたものが全く通用しない世界に放り込まれたときなのではないかと思います。
時代の流れと自身の成長を眺めつつ、時代に取り残された私のような初老人は、それでもこれまでのやり方を貫くのかもしれない。それもよし。この時代に求められる大切なものに気づき、そこに向かい歩き始めるかもしれない、それまでとは異なるアプローチで。それも又よし。
私は文章になる前の状態を未だ掴みきれていないから、Show太さんの振り返りをとても楽しみにしております。
【あさと⇒E田・Show太 春合宿Messengerグループ】
夜中で唐突にかいていますが💦感想読ませていただきE田さんとShow太さんに対する感謝を勝手ながら置いておきます。
孤独や痛みや病むことって実は人生における薬あるいは宝なのかもって皆様の投稿から気付かされました。
少なくとも私自身は痛みや病みほど忍耐や寛容さや器を深くしてくれる機会はない気がしています。
E田さん
E田さんには、へばりついていたちっぽけな私を壊してくれてとても感謝してます。
E田さんの岩を頂上に運んで降ろされる例えが心から離れなくて今でもよくわからないけど好きです。
ちっぽけな私を壊してくれることば
E田さんのことばにこころは反応していました。壊されることが痛いのに同時に少し嬉しかったです。
壊されるってとてもありがたいことですね。
E田さんがじゃあねって手を振って去っていったらShow太さんに壊れたこころを拾い上げるように全部拾ってくれて、この方はきっと今までも色んな方々の壊れたこころを拾おうとされてたんだろうなと思って居心地が良すぎて思わず全て委ねてしまいました。笑
あたたかい気持ちとその気持ちを行動に移してくださったこと
そのよろこびとあたたかさを今でも覚えています。
とにかく2日がとても濃密だったのですが、ばんさんだけでなく、本当にメンバーの方々のおかげで気づかされてきました。それも私の中ではかなり予想外というか驚きの連続でした。
きっと今までの会で地道な関わりの恵みを私は2日間で凝縮していただいたのだと思います。
ということで感謝してもし尽くせないですね。
ありがとうございます💐🌵
今後もよろしくお願いします🥕
【E田⇒ばん 後日追加分】
瀬戸嶋充さま
瀬戸嶋さんのレッスンに集う方は、素直な方々ばかりだなというのを再確認した合宿でした。
ゆとり世代、サトリ世代と呼ばれる人の凄さは、私たち老人が死にもの狂いで手に入れようとし又はずそうとしてきたものを、軽々と扱いこなしているところでしょうか。
それゆえ人間のもつ暗部を想像できないのかもしれません。こういうものはよくてこういうものは悪いと整地されたところにいるような印象。たくさんの場が与えられており、それぞれの場において、そのルール内でまとめあげているような。この身ひとつしかなかった世代は、何でもかんでもひとつの場にぶっこみかっ食らう猥雑さがありました。競争があったから、失敗もわかりやすかったといえます。
それぞれのペースで成長している若者に、それが人の本来の姿であると感じました。どうかさまざまな世界を経験し、その価値観に触れ、他の人の大切なものは何かをわかるようになってほしいなと希います。場数を踏む、失敗をするのは財産ですよ。
私は経験が圧倒的に少ないので遊びがないというか余裕がないというか、身体には詰まった場所ばかりですが、つまらない人間だなと膝から崩れおちました。もっと挑戦し、世界を拡げねばと真剣に思いました。
瀬戸嶋さんのレッスンは、なにものかを個人単位では解決できゃしないんだと気づかされます。相手に対して投げかける、みんなで協力して動く。進むように見える道は頭のなかには数あれど、そこにしか進む道は開かれはしない。
朗読劇では、一人ひとりの声が動きが静かな水面にやがて大きなうねりを引き起こし、どこにもってかれるの?でも大丈夫!の世界に没入してゆく。
懇親会では厳しいことを言い、ごめんなさい。私は何かあったら必ず助けるぞという仲間しかいらないし、そういう人にしか話しません。どうか原始人の暴走をお許しくださいませ。
大地のエネルギー出づる国(伊豆=イズ=イズる)での合宿、とても楽しかったです。ありがとうございました。みんなの笑顔がいちばんのしあわせであると実感できる瀬戸嶋さんのレッスンに、どうぞ多くの方が参加されますようにお祈りしております。
【あい⇒ばん 後日追加分】
♬合宿の感想♬ K岡
参加者の方が自分のからだに触れ、なにかを感じ取ってくれること、そしてそれをことばにしてくれることが、なぜかとても嬉しかったです。気にかけてくれて、受け止めてくれてありがとう、というあたたかな気持ちになりました。
同じように自分が誰かのからだに触れるとき、自分の中のネガティブな要素を相手が受け取って、傷つけてしまったらどうしようという不安がありました。でもいざ触れてみると、相手/自分という境界が段々と薄れてきて、しだいに怖さは消えていました。それどころか、安心を感じている自分さえいました。参加者のみなさんも言っていたように、相手を癒すつもりが、実は自分が癒されていたということだと思います。
そして、からだで感じた後には必ずみんなでことばを共有する。最初は、なんでこんなことをするのだろうと思っていましたが、からだの感覚や感情、目に見えるかたち、色など…それぞれの人がそれぞれの切り口から発することばを聞いて、自分の中で起こっている動きをより細かく観察することができるようになりました。それから、ことばを共有することで、あの場で起こったことをひとりだけの経験に終わらせず、みんなでその経験を共有することができる。ばんさんがメンバーのだれかと向き合っているとき、それは同時に自分に向けられていることばでもあるのだと、後になって分かりました。そして自分も相手のからだからいろいろな感覚を受け取ったけれど、その感覚をことばにするにはあまりに表現力が乏しかったことに驚き、それでも、感じたことを素直に信じてことばにしたいという一心でした。
自分にとって、声を出すことはとても怖いことです。声のレッスンの時は、泣きそうになりながら声を出しました。でもみなさんがあたたかく見守ってくれたおかげで、つくろいやごまかしのない、自分の本来の、自然な声と出会うことができました。そしてばんさんは、声を出す際のことばの引っ掛かりや、声が上に上がっていっていることに気づいてくれました。ことばとからだは結びついているということ、当然なのかもしれないけれど、これまでふたつを切り離して使っていたと気づかせてもらいました。私は吃音をもっていますが、吃音になって20年間、詰まって言えずに置き去りにしてきたことばたちが、喉の奥やお腹に溜まっているような気がします。そのことばたちを吐き出してあげられる方法を、これから『からだとことばといのちのレッスン』と日常生活との行き来を繰り返しながら模索していきたいと思いました。
「いのち」ということばに目を向けたのは、ゴルゴ松本の「いのちっ!」のギャグ以来です。それくらい、自分とは縁遠いことばだったような気がしています。私がイメージする「いのち」は、弱くてはかないもの、ちょっとしたことですぐに壊れてしまうもの。虫とか、動物とか、赤ちゃんとか、“自分より弱い”と勝手に決めつけているものの「いのち」は想像できるけど、そもそも「いのち」ってなんなんだろう…。「いのち」は、からだとか、そこにある有機物のかたまりそのもの以外のなんでもないと考えていたけれど、今回のレッスンでメンバーや自分のからだに触れ、なんとなく「いのち」ってかたまりのことじゃなくて、もっともわっとして大きくて、境界のぼやけたものなのではないかと感じたのでした。
≪その他みなさんから得た気づき&ばんさんからのメッセージから考えたこと≫
・大地に根付く、とはどういうことか。どんなからだやいのちの在り方なのか。気になってまともに歩けない。とりあえず足の裏で地面を感じるようにして歩いている。
・目がなければどんなに楽だろうと思った。次回コンタクトを買うときは、度数を少し低くしたい。
・他人を信用できないのは自分を信用していないからなのかも。どうすれば自分を信じられるようになるのか。
・呼吸はとても大切だと実感した。呼吸の状態でからだやこころの状態が変わる。
【ばんのひとこと】
そう云えば、みんな好く笑いましたね!きみちゃんの腹の底から転がり出るような笑い、凄かったですね(笑)あんなに笑えることも、普段ないことですね。みなさんありがとうございました。
ここまで読んで頂き感謝です。何か伝わることがありましたら、合宿にいらして下さい。よろしくお願いします。
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